15代将軍『徳川慶喜』は、大政奉還のあとカメラマンを志した

わっきーさんによるイラストACからのイラスト

徳川慶喜ってどんな人物だっけ?

歴史の授業をあまり熱心に聞いていなかった方のために、まずはおさらいしておきましょう。
徳川慶喜とは江戸幕府最後の将軍であり、日本最後の征夷大将軍である。
有名な話は、もちろん、大政奉還により政権を朝廷へ返還したり、新政府軍への江戸城開城などを行ったというお話ですね。
また、 逸話として、在任中1度も江戸城に入城しなかった唯一の将軍であり、後には貴族院議員として35年間、政治に携わっていたようです。

なぜカメラマンを志したのか

徳田幸吉という人物に写真の技術を学んでから、非常に関心を持ち、毎日写真をとることに夢中になっていたようです。
しかし、多趣味であったことも知られており、職業として ”カメラマン” を志していたかは確証はない。

カメラマンを志した証拠

当時「華影(はなのかげ)」という雑誌に、なんと徳川慶喜が写真を投稿していたというのです。
この雑誌は明治時代にあった投稿型の写真誌で、当時の写真愛好家たちがこぞって写真を投稿していた雑誌なのだそう。
雑誌中の徳川慶喜が投稿した写真のページの投稿者欄には、はっきりと『徳川慶喜撮影』と記載されています。

余生

徳川慶喜のお墓
h********************pさんによる写真ACからの写真

引用元:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

明治2年(1869年)9月、戊辰戦争の終結を受けて謹慎を解除され[12]、引き続き、駿府改め静岡に居住した。生存中に将軍職を退いたのは11代・家斉以来であるが、過去に大御所として政治権力を握った元将軍たちとは違い、政治的野心は全く持たず、潤沢な隠居手当を元手に写真・狩猟・投網・囲碁謡曲など趣味に没頭する生活を送り、「ケイキ様」と呼ばれて静岡の人々から親しまれた。一方で、旧幕臣が訪問しても渋沢栄一など一部人以外はほとんど会わなかった。共に静岡に移り住んだ旧家臣たちの困窮にも無関心で「貴人情を知らず」と怨嗟の声も少なくなかった。
明治30年(1897年)11月に東京巣鴨に移り住む。翌年には有栖川宮威仁親王の仲介により、皇居となった旧江戸城に参内して明治天皇に拝謁もしている。
明治34年(1901年)12月に小石川区小日向第六天町(現在の文京区春日2丁目)の高台の屋敷に転居し、ここが終焉の地となった[13]。明治35年(1902年)には公爵に叙せられ、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を興し、貴族院議員にも就いて、35年振りに政治に携わることになった[14]
明治43年(1910年12月8日、七男・慶久に家督を譲って貴族院議員を辞し、隠居。再び趣味に没頭する生活をおくる。
大正2年(1913年11月22日、(急性肺炎を併発した)感冒のため死去[15]。享年77(満76歳25日)。大正天皇は侍従海江田幸吉子爵を派遣し、祭資金や幣帛と共に以下の勅語を伝達させた[16]

Tips

  • 徳田幸吉(写真家)に写真撮影の技術を学んだ。
当時のトリビアの泉をYouTubeで見つけたので、リンクを貼っておきます。