水戸黄門は思春期の頃かなりグレていた
水戸黄門
一般的には水戸藩を治めていた、徳川御三家の一人であり、名は徳川光圀(とくがわみつくに)という事で広く知られていますよね。
それに徳川家康の孫であることも有名です。
まぁ、ほとんどの方は時代劇ドラマの影響で、世直しをして回った偉いおじいちゃん的なイメージだと思います。
ちなみにWikipediaには以下のように記されています。
水戸黄門(みとこうもん)とは、権中納言である江戸時代の水戸藩主・徳川光圀の別称かつ、徳川光圀が隠居して日本各地を漫遊して行なった世直し(勧善懲悪)を描いた創作物語の名称。かつては専ら『水戸黄門漫遊記』(みとこうもんまんゆうき)と呼ばれていた。
引用元: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
意外な真実
さて、そんな世直しの旅をしていた偉いおじいちゃまですが、なんと若い頃はかなりグレていたのだそうです。
いったいどんな風にグレていたのか、気になりますよね?
その頃の様子は、以下のような書物に書かれているそうですよ。
『小野諫草』や『玄桐筆記』の内容
光圀は派手な格好をして悪友たちと勝手気ままな行動を繰り返していました。
そしてある時、町人達の相撲大会が開かれ、光圀は悪友たちを参加させて相撲を取らせました。
しかし、仲間たちはことごとく敗れ去ってしまいました。
光圀はそれに腹を立て、なんと突然刀を抜いて暴れ、相撲大会を台無しにしてしまいました。
さらに光圀は遊郭に上がって遊ぶようにもなってしまいます。
そして、まだ幼い弟たちにいやらしい話を話してみせ、教育係を困らせていたそうです。
この内容はWikipediaにも記載されています。
藩主相続まで
引用元:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
寛永13年(1636年)には元服し、将軍・家光からの偏諱を与えられて光国と改める。この年、伊藤友玄・小野言員・内藤高康の3人が傅役となる。また水戸藩家老職の山野辺義忠の薫陶を受ける。義忠は山形藩の藩祖・最上義光の子で、最上騒動で改易される要因になるも、有能な人物として知られている。
だが、少年の頃の光圀の振る舞いはいわゆる不良であり、光圀16~17歳のとき、傅役の小野言員が「小野言員諫草(小野諫草)」を書いて自省を求めた。
光圀18歳の時、司馬遷の『史記』伯夷伝を読んで感銘を受け、これにより行いを改める。
承応元年(1652年)、侍女・玉井弥智との間に男子(頼常)が生まれるが、母の弥智は誕生前に家臣・伊藤友玄に預けられて出産し、生まれた子は翌年に高松に送られて兄・頼重の高松城内で育てられた。光圀に対面したのは13歳の時であったが、このとき光圀は親しみの様子を見せなかったという。承応3年(1654年)、前関白・近衛信尋の娘・尋子(泰姫)と結婚する。
明暦3年(1657年)、駒込邸に史局を設置し、紀伝体の歴史書である『大日本史』の編纂作業に着手する。
万治元年(1658年)閏12月23日、妻・泰姫が21歳で死去。以後正室を娶らなかった。
Tips
- 『小野諫草』は光圀の教育係であった「小野格衛門」の書物
- 『小野諫草』 によると「本格的にグレていたのは15~18歳の頃」だそうです。